TTR事故報告

2007/05/14(月) Posted in 参加しました

以下は、事故の直後に呼びかけに応じて寄稿したものです。慰霊登山で事故報告書を御遺族の方に頂き、つい先日も立派な追悼集を頂きました。実際に掲載されたものは編集されているため、この文章とは異なりますが、この機会にブログの方に載せておこうと思います。(以上、2008年5月31日記)

事故報告書を書くに当たって

レポート後半に書きましたが、去年の秋ごろから、Tさんとメールでやりとりさせて頂いておりました。いつかゆっくりお話しする機会もあると思っていたのですが、残念です。私はレースを続行し、走っている間は「このことを下山の言い訳にしてはならない」と思い続けていました。しかし終了後、自分の記録のことしか頭に無かっただろうかなどと思うこともありました。報告書を書くことで、今は少し整理がついた気持ちです。機会を頂けてありがたく思います。

私の見た現場の状況

11:15ぐらいに現場に遭遇した。少し傾斜のある上りから道が左に曲がったところだったように思う。道幅は2mぐらい。倒れている人に、1人が心臓マッサージと人工呼吸をしており、もう1人が脈を見ていた。他に10人ぐらいの選手が立って取り囲んでいた。「倒れていた」「心肺停止状態だ」「棒ノ嶺のスタッフには人が向かっている」「救急に電話した」「ヘリを呼んでいる」とのことが聞き取れた。蘇生処置は始まって間もないようだった。「なにか身元の分かるものを探して」言われ、SIに貼り付けられたシールのゼッケンと名前で「T」さんであることが分かる。ここで初めて顔を確認し、本当にTさんと分かった。いつもの赤いラインの短いタイツを穿いていた。しかし他に連絡先の分かるものは見つからないようだ。心臓マッサージと人工呼吸もかなり激しい作業だ。手分けするか交代しなくてはと思ったり、Tさんに声をかけたり着ている服をゆるめなくてはと思うけど結局自分は何も出来ない。吹き込んだ呼吸が、自発呼吸が出来ないせいか、いびきのような音で吐き出されてしまう。「瞳孔も開いている」とのこと。かなり状況は厳しいようだ。

そのうち、救急の方から他の選手の方に電話で連絡が入った。現地を教えたいが、主催者が配布した地図では分かりづらい。山と高原地図を持っていたためそれを出す。「権次入峠から少し黒山寄り」と電話の方に伝えた。いざと言うときのエスケープ用だったのにこんなところで出すなんて…。何人かが「棒ノ嶺に状況を見に行く」といって進む。また、ヘリが来たとき合図できるように、上空の開けたところを探す。数人と権次入峠まで行き、ヘリを待つが音もしない。ウェアをストックに付けたりして目立つものを作る。じっとしていられなくて現場に戻る。取り囲む選手はどんどん増えていた。ここではヘリは降りられないだろうから、棒ノ嶺まで運ぶことになるだろう。棒ノ嶺に応援に来てくれていた知人が3人降りてきて、私は一旦現場を離れるが、また権次入峠で立ち止まって所在無くヘリを待った。何をしていいか分からず現場に戻りかけたとき、ストックとザックで担架が作られたようで、Tさんを皆で運んでいる。声を掛け合い、足元の岩などを注意しながら進んでいた。木の枝などを除けるが、担架で運べる程度に道が広いことはせめてもの幸いだった。ヘリの音がし始めて、目印になるようにストックを振ったりした。交代しながら、棒ノ嶺までTさんを運んだ。

棒ノ嶺はレースのチェックポイントになっている。そこに、スタッフに代わってゼッケン控係になった知人がいた。状況を話しながらチェックをした。この時の記録によると、11:49。すぐにヘリが来た。まず救急隊員が降りてきて、Tさんに再度処置をした。それまで蘇生処置をしていた方は、救命措置を始めた時間、Tさんの名前、年齢、経過などをメモしていたようだ。それを救急隊員に渡していた。まもなくTさんは救急隊の担架に乗せられ、搬送が始まった。ヘリが近づくから離れてと言われ、風と砂埃に背を向けてしゃがんでいた。風が収まったころヘリを見ると、すでにTさんは乗せられたようで、すぐに姿が見えなくなった。スタッフに「選手は集まって下さい」と言われ、「レースは続行します。ただし、ここから下山する場合は…」など説明を受けた。12:15だった。残念な結果になってしまったが、蘇生処置をしていた方の冷静で適切な行動に、心から尊敬を覚えた。私も、する側にもされる側にもなりえる。救命処置を含め、野外での危機管理についてもっともっと学ばなくてはならない。

Tさんとの思い出

最初に知ったのは、第一回のTJARのレポートを知人を通じて入手したときです。そのとき私はまだトレイルランを始めたばかりで、山岳耐久レースを目指して練習していました。個人的な繋がりは無かったのですが、こういうレースがあることについて驚くとともに、「思い切って切り捨てたもの:スペアの衣類」というTさんの記載にすごい人もいるものだと思いました。

個人的に知り合ったのは、2006年5月5日、中止になったTTRの後、知人と2人で一杯水~雲取~鴨沢を走った後のバス停でした。へとへとで18時台のバスを待っていたときに、丹波の方から短いタイツで真っ黒に日焼けした痩せた眼鏡の男性が走ってきました。明らかにトレイルランナーでしたので、声をかけたところ「雲取より西に行ってきたけど、雪が深くなって降りてきた。のめこい湯に行こうと思っていたけど、終バスが無くなるから、鴨沢に走ってきた」と。バスに乗ったら、Tさんはものすごく汗臭い状態で、座っていたお客さんが全員窓を開けたのがおかしかった。TJAR参加の方が、ブログで「(TJAR中の)選手は有毒ガスを発生させているので、3m以内に近寄る事は禁止!です。臭いで倒れます。」と書いてらっしゃったのですが、それに近い感じのTさんは誇らしげに堂々とバスに乗っていました。ビュービュー風の吹き込むバスの中で、第一回TTRで和田峠まで行ったこと、山岳耐久レースの時はスイーパーをしたこと、スタッフが足りなくて大変なこと、雲取山より西が面白いということなどのお話をした記憶があります。その時はお名前も伺わずに別れてしまいました。

夏に第二回TJARが開催され、Tさんが最後の舗装路でウルトラランナーのウルトラっぷりを発揮し、見事完走されたのはご存知の方も多いと思います。私もネットで状況を追っていましたが、鴨沢でお会いした方とはいまいち分かっていませんでした。

その年の9月半ばに、スポーツエイドジャパン主催の「第9回雁坂峠越え秩父往還141km走」があった時のことです。私はレースとは別に、三峰口~雲取山荘(泊)~雁坂峠のトレイルランをしていました。雁坂峠に降りた時、ちょうど休憩している知人がいたので写真など撮って大騒ぎして、川又に下山しました。

後日、「先日の雁坂越え141kmのCP3、雁坂小屋でエイドスタッフをしていたTと申します。当日、頂上から小屋に下りて来る選手を撮影していたのですが、添付のように、○○さんの写真が含まれていると思いますので、お送りします。」というメールが、ブログに公開しているアドレスに来ました。知り合いの方のブログを通して、私のブログも時々見て下さっていたので分かったとの事。2回ぐらいやりとりして、「Tさん=鴨沢でお会いした方=TTRで和田峠まで行った方=TJARのTさん」と気づいて度肝を抜かれました。そんな気さくなところも、Tさんらしいところだったのでしょうか。

その後しばらく、メールでやりとりさせて頂きました。Tさんからは、「奥多摩駅⇔甲武信岳」や、「みずかき山→吾野を企画したのですが、飛龍で下山」など、尋常でないトレイルランの話など伺いました。私は、「山岳耐久レースで去年は心肺停止の方が出たけど無事救命されたとのことで、スタッフさんのおかげで安心して走れます。」などと、今読み返すと苦しくなるような話をしています。でも、これは、当たり前の話なんですよね。当然背負うべきリスクについてTさんこそよく理解していたのだと思います。

山岳耐久レースの表彰式を見ている時に、改めてTさんと、短い時間でしたがご挨拶できました。その翌週に行われた、TJARの報告会は今も鮮明です。綿密な計画表、手作りのザックの肩当て、ペットボトルにつけられるように工夫したチューブ、「男の手縫い」といった感じに縫い合わされたツェルトの底、ザックに括りつけた小物入れ…。ずっとこのレースに心を込めて、準備から楽しんでいる姿が浮かぶような品々でした。途中で思い切り転倒し、岩で胸を打ったという話も思い出しました。胸に入っていたデジカメで助かった、そういうラッキーもあったと。硬そうなカメラに深い白い傷が付いていたのを見ました。そういった危機を乗り越えてなお、トレイルランを愛してこのレースに参加されていたのだと思います。最初で最後になってしまいましたが、同じレースに出られたことを嬉しく思います。

Tさんのご冥福をお祈りします。